金栗四三とは
日本初のオリンピック選手、金栗四三は、
1891年(明治24年)8月20日、和水町に生まれました。
父である信彦が43歳の時に生まれたということで、
四三と名付けられたということです。
四三が生まれたとき、体が弱かった信彦は家業の造り酒屋を廃業し、農業に転向していました。
8人兄弟の7番目だった四三は、美しく自然豊かな和水の地で家族に見守られてのびのびと成長し、10歳で玉名北高等小学校に入学します。
自宅から学校までは長い坂道が続く6㎞もの道のりでした。
往復12㎞の道のりを駆け足で走り抜ける「韋駄天通学」が始まったのです。
四三は、雨の日も猛暑の日も12㎞の通学路を通いながら、少しずつ呼吸法や走り方の工夫を始めます。
学業も優秀であった彼には、走るということも一つの知的な挑戦だったのかもしれません。
小学校卒業の際、病弱だった父が急逝します。
不幸に見舞われた金栗家では、農業の手伝いをするという選択肢ももちろんあったでしょう。
しかし、優秀な四三に進学させてやりたいという兄達の思いを背負って県立熊本中学校玉名分校、いまの熊本県立玉名高等学校に入学し、特待生に選ばれるという輝かしい成績を治めました。
1910年(明治43年)、四三は東京高等師範学校、現在の筑波大学に進学。
文武両道を誇る東京高等師範学校には足自慢が揃い、毎年2回の校内マラソン大会が開催されていました。
1年生の秋大会で上級生を抑えて3位に食い込んだ四三は注目の的となり、当時の校長であった嘉納治五郎の強い勧めでマラソンランナーの道を歩み始めます。
嘉納治五郎は柔道の父として知られますが、水泳、陸上など数々の競技を国際水準に高めた伝説的な指導者であり、類い稀な教育者でもありました。
四三を見出した時にはすでにその東洋初の国際オリンピック委員会委員に選出されており、世界の陸上のレベルを理解していた彼は、四三の才能は世界的なものだと大いに期待したようです。
日本オリンピック協会を設立、初代会長となってオリンピック予選競技会を開き、世界記録を大きく塗り替えて圧勝した四三を近代オリンピック第5回大会となる1912年のストックホルム大会に送り込んだのです。
スポーツシューズではなく、「金栗足袋」とよばれるランニング足袋でスタートを切る姿に世界も驚いたことでしょう。
しかし、現代のようなコース整備や選手へのケアのない時代、マラソンは余りに過酷なスポーツでした。
猛暑に耐えかねて半数が脱落、死亡者も出たこの大会で、四三も26.7km地点で意識不明となり、近隣の農家に保護されます。
大会関係者はこれを把握できず、彼の記録は「行方不明」という異例の扱いになりました。
初めてのオリンピックは棄権、期待のかかった翌大会も第一次世界大戦のために中止となる不運に見舞われる四三ですが、その後2回のオリンピック出場を果たしています。
その他、地理の教師とマラソンランナーの二足の草鞋でありながら箱根駅伝の創設や、女子体育連盟の結成など、幅広いスポーツの振興に尽力、素晴らしい偉業を次々と打ち立て、1955年(昭和30年)にはスポーツ界初の紫綬褒章受章者になりました。
後進育成にも力を注ぎ、彼が試行錯誤を重ねた金栗足袋を履いた愛弟子たちが次々と世界新記録を樹立しています。
そして、初めてのオリンピック出場から55年が過ぎた1962年(昭和42年)、スウェーデンから招待状を受け取ります。
それはストックホルムオリンピックの55周年記念行事の招待状でした。
55年前のオリンピックの「消えた日本人」、四三はこの招待によって、ようやくゴールテープを切ることができたのです。
記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3、オリンピックの最長記録でした。
1983年(昭和58年)11月13日、92才で永遠の眠りにつきます。
お墓に刻まれた彼の座右の銘「体力・気力・努力」の言葉は、今でもたくさんのスポーツマンの指標となっています。
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